人と笑う超人

[お笑い]

笑う超人 立川談志×太田光 [DVD]

笑う超人 立川談志×太田光 [DVD]


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 買うべき。
 太田と談志との対談に始まり、「黄金餅」「らくだ」の二本に加えて特典映像に2006年12月のタイタンライブで演った「鼠穴」をまるまる収録。本編+特典で実に150分の大作。

 太田光タモリさんにこのDVDを渡したら「いい仕事したねえ〜、絶対見るよ」 と言われたらしい(先週の爆笑問題カーボーイより)。そういえばタモリ立川談志について語るのって聞いたことないのでなんだか嬉しいというか。やっぱりタモリさんも談志師匠のことは気になってるっつか凄いと思っているのだろうなあと。太田自身も「嬉しかった」と言っていた。

 「黄金餅」「らくだ」「鼠穴」の三編は全て太田光が「やってくれ」と師匠にお願いしたらしい。それらに共通するのは、DVDの対談などでも再三言われているように「人間のグロテスクさ」が強調されている点。

 太田光ヴォネガット好きで有名だけど、なにが好きかって言うと人間のダメな部分を描いて「それでいいんだよ」と言っているところだってようなことをどっかで言ってた。ダメな部分を肯定してるわけでも否定しているわけでもなく、つまり「そうあるべきだ」「そうあるべきでない」とは言わずに「そういうもんだ」ってありのまま受け入れてそのまんま描いているような。ってことだと思う。たぶんこれら三編の落語も同じようなもんで、人間の本質にある、グロテスクで残酷で正直な部分をありのままに映し出してしまうのが“立川談志の演る”「黄金餅」であり「らくだ」であり「鼠穴」なのではないかと。
 
 「円楽なんてのはバカだから、『鼠穴』を美談にしてしまう」なんてことを、師匠はDVDの特典映像で語っているが、なるほど。「黄金餅」だって「らくだ」だって、演る人が演ればただの笑い噺になってしまうかもしれないそこをちゃんと「グロテスクな噺」にしてしまうのが落語の本来の在り方なのかもしれない。
 
 驚いたのは「らくだ」で、くずやが酒を飲み始めて独壇場になる場面。
 
 「どんなもんでも買わせようとするんですよ」と、くずやがいかにらくだから酷い仕打ちを受けてきたかを語っている途中で、突然くずやが「二年くれえ前かなあ」と回想を始める。雨宿りをしていたら隣にらくだがやってきたので、くずやは震えて「らくださん、この雨、百文で買いましょうか」と言ったら、らくだはフフンと笑ってくずやの頭を小突き、雨の中を去っていった。その後ろ姿がなんだか悲しそうだった、とくずやは述懐し、一瞬しみじみとした空気を醸し出す。が、すぐに「だけど悪い野郎ですよ!」とらくだの悪口へ戻る。
 
 この場面は僕の知っている「らくだ」にはなかった。志ん生米朝の「らくだ」にはなかったはずだし、それどころか若いころの談志の「らくだ」にもない(あくまで僕の知っている限りだけど)。僕が持っている談志の「らくだ」音源は30分弱で、このDVDに収録されているのは50分近くある。歳を取って間が多くなったというのもあるかもしれないが、単純にエピソードや言葉数自体が増えている。今回は時間に制約がなかったのか、やりたいことをやり尽くした感じ。50分近くにも及ぶ談志の「らくだ」が聴ける機会というのはまずないと思うので、そういう意味でもこのDVDは貴重だ。
 
 さてその雨宿りの場面。この場面は本当に凄い。面食らった。
 まず、このDVDの「らくだ」は、序盤でらくだの性格をほとんど説明しない。噺が進んでいくうちに、「あ、らくだってのは乱暴者でひどいやつで、本当に長屋のみんなから嫌われていたんだな」とわかっていくような構造になっている。志ん生なんかははじめにらくだの人となりを説明しているが、「笑う超人」での談志は一切しない。はじめに「らくだはこういう人間だ」という先入観を与えられないので、聞き手は長屋の人々の生の声から「ああそういうふうに思われていた人だったんだ」とわかる。「地の文」で規定されない、死人であって口のないらくだの人となりは、他人の言葉によってのみ構築される。それが故に、くずやがほんの一時だけこぼすらくだの「悲しい部分」、「人間らしい部分」がより際立つ。
 上手いなと思ったのは、雨宿りの話をする前に伏線としてくずやに「今になると、その人はその人なりになんか悲しいことがあったんでしょうねえ、わかりませんよ」と言わせているところ。この「その人」というのはらくだのことではなく、まったく別の話題なのだが、構成上は明らかにその後の雨宿りの話に出てくる「らくだの悲しそうな後ろ姿」に重ねられている。あまりに巧緻。

 談志は「らくだの悲しそうな後ろ姿」をいったんは映し出すものの、その直後、すぐに「だけど嫌な奴ですよ!」と言わせる。このとき、「らくだの悲しそうな後ろ姿」は救いようのないものになる。「ああ、らくだはらくだで悲しい人生だったのかも知れない」と思ってしまえるほど、人間というのは大きくできていない。らくだがいくら悲しんでいようが、くずやはもっと深い悲しみや苦しみをらくだに押しつけられてきた。ちょっとくらいらくだが悲しい人間であったところで、それがなんだ。どう転んだって「らくだは嫌な奴」だ。「らくだが死んだ」という報せを受けて長屋の誰もが飛び上がって喜ぶ。らくだはそういう人生を送ってきたのだ。そんな人生に救いなどあるわけがない。それは真理であって、談志の落語はそこを抉り取る。

 落語は人間を描いている、なんて言われるのはこういうことだ。人間の本質、本音をあまりに深く覗かせるものだから、談志の落語はあまり単純には笑えない。しかしそこを笑ってしまうのが、落語という文化なのだと思う。

 なんて僕が偉そうなことを言っても仕方ないので、安いんでDVD買って見てください。え? 買わねぇってのか? そうかそうか。それなら仕方ねえなあ。ところで死人のやり場に困ってるんでそっちに担ぎ込ませてもらおうかねえ。いや、ただ担ぎ込むだけじゃ面白くないんで、かんかんのうでも踊らせ